在國外長大的孩子,已經感覺難以融入日本了_風聞
龙腾网-2022-01-20 18:07
【來源龍騰網】
正文原創翻譯:

「海外で子育て」。この言葉を聞いてどのような印象を持つだろうか。私たち夫婦(共に日本生まれ日本育ち)は現在オーストリアで子供2人を育てているが、日本で子育てをする知人からは「子育てしやすそうでいいね」と言われることが多い。
“在海外養育孩子”,聽到這句話會有什麼印象呢?我們夫婦(都生在日本,長在日本)現在在奧地利帶兩個孩子,在日本帶孩子的熟人經常説“好像很容易養育孩子真好啊”
実際にこちらで子育てをしていると、國からの支援は充実しているし、以前、「子育てがつらい國、日本。皆を苦しめるその『空気』の正體」という記事にも書いたが、日本で子育てをしている時に感じていた「親は子供が社會に迷惑をかけないように管理すべき」という空気もなく、社會に望まれているという安心感の中で子育てができる。
實際上,在這裏養育孩子,國家的援助很充實,以前的報道“養育孩子困難的國家日本,讓大家痛苦的氛圍的真面目”中寫過,在日本養育孩子的時候感覺到”父母應該管理好孩子,不要給社會帶來麻煩”這樣的氛圍,這裏沒有,可以在社會所期待的安全感中養育孩子。
このような「親側の視點」からの前向きな海外の子育て情報はメディアでも近年よく取り上げられるようになった。しかし上の子が10代半ばに差し掛かった今、私たち家族は、日本ではまだ取り上げられることが少ない「海外で育つ子供側の視點」からの様々な悩みに直面している。中でも特に、海外で育つ子供に対する日本の「排他性」への悩みは深い。
近年來,媒體也經常報道以“父母的視角”為題材的積極向上的海外育兒信息。但是,現在大兒子已經快到青春期了,我們家庭面臨着各種各樣的苦惱“在海外成長的孩子的視角”,這些苦惱在日本還很少被提及。其中,對在海外成長的孩子,日本的“排他性”的煩惱尤為嚴重。
原創翻譯:龍騰網 http://www.ltaaa.cn 轉載請註明出處
私たち家族は、上の子の就學前にアメリカに渡り約3年間過ごし、その後オーストリアに渡りもうすぐ6年になる。その間に上の子はアメリカとオーストリアのプリスクールや公立學校に通い、アメリカで生まれた下の子も今はオーストリアの幼稚園に通っている。
我們一家人在大兒子上學前去美國待了3年左右,之後去了奧地利也快6年了。在這期間,大兒子在美國和奧地利的普校和公立學校上學,小兒子在美國出生,現在在奧地利的幼兒園上學。
オーストリアでは子供が10代前半の時點で自分の將來について真剣に考え始めるシステムになっており、その中で上の子もこれから何を學び、將來はどう生きたいのか考える日々を送っている。上の子のそんな姿を見て、親としても1人の大人としても嬉しく感じているが、將來という部分に関して私は一つ複雑に感じていることがある。
在奧地利,孩子們在十幾歲的時候就開始認真考慮自己的未來,其中大兒子也在思考今後要學習什麼,將來要過怎樣的生活。看到大兒子的樣子,無論是作為父母還是作為一個成年人,我都感到很高興,但對於將來,我有一種複雜的感覺。
上の子は、學業や仕事のために將來住みたい土地の選択肢として、日本だけはないと明言しているのだ。
大兒子明確表示,為了學業和工作,作為將來他想居住地方的選擇,唯獨日本不在其中。
日本が好きでも耐えられない
まず誤解してもらいたくないのは、上の子は日本の文化が嫌いではないという點だ。日本の漫畫や小説はよく読むし、日本のアニメや映畫もよく見る。大使館を通して配布される日本の教科書も読み込んでおり、今年はCOVID-19の感染拡大により実現しなかったが、ここ數年の夏休みはその大半を日本で過ごすのが通例となっている。最近では日本語の語彙力を増やそうと、不安な言葉が出てくるとその場で広辭苑を引くことを習慣とするなど、自分のルーツのある日本にとても強い興味を持っている。
喜歡日本,但也受不了日本
首先,不要誤解我的意思,大兒子並不討厭日本文化。他經常看日本的漫畫和小説,也經常看日本的動漫和電影。還閲讀了大使館發行的日本教科書,今年由於新冠疫情的擴散暫停了,但最近幾年的暑假大部分時間都在日本度過已成為一種慣例。最近,為了增加日語的詞彙量,每當出現難理解的詞語時,就立即查日文辭典已成為習慣,對於自己的根源日本產生了強烈的興趣。
日本人は「言語」にしか興味がない
例えば、アメリカからオーストリアに移ってまだ間もない頃のこと。日本にいる親族と久しぶりに會った際、挨拶してすぐに親族の1人が上の子に「アメリカではOopsって本當に言うの?」と聞いてきたのだ。上の子が戸惑いながら「うん」と言うと、「へー、そうなんだ」とニヤニヤ笑ってその會話が終わった。
日本人只對“語言”感興趣
例如,我們剛從美國搬到奧地利不久。大兒子和在日本的親戚久別重逢的時候,他們打招呼後,其中一位親戚立即問大兒子:“在美國真的會説Oops嗎?”大兒子困惑地“嗯”了一聲,他笑着説:“哦,是這樣啊。”談話就這樣結束了。
その後も、夏休みに日本に滯在する際などに、主に大人から「これ英語でなんて言うの? ドイツ語でなんて言うの?」と一方的に聞かれるという體験を繰り返している。そして多くの場合、そこから海外の文化や歴史またそこで何を考えどう生きているのかについて話が発展するのではなく、上の子への興味が外國語が話せるという部分にしかないかのように言語に関する話だけで終わってしまうのだ。
此後,他在暑假逗留日本時,主要的經歷就是大人反覆單方面地問他:“這個用英語怎麼説?用德語怎麼説?”而且很多時候,並沒有從這些話題中引申出外國文化、歷史以及我們在那裏的思考和生活方式的話題,而是僅僅聊關於語言的話題就結束了,好像他們對大兒子的興趣只限於會説外語。
原創翻譯:龍騰網 http://www.ltaaa.cn 轉載請註明出處
一方、今住むオーストリアではこのような経験はとても少ない。例えば、上の子の學校には生まれてすぐにカナダに移住しオーストリアに戻ってきたオーストリア人のクラスメートがいるが、その生徒に皆が尋ねるのはカナダの文化や暮らしといった點ばかりだ。その生徒に質問する形でカナダについて皆で議論するという授業が行われたこともあるとのことだ。同様の授業は、上の子に質問する形で日本についても行われたとのことである。また、學校に限らず、こちらで出會った人が上の子に日本に関して尋ねてくるのはその多くが生活や文化についてであり、たとえその質問が言葉に関するものであっても、文化の一側面としての質問である場合がほとんどである。
相反,在現在居住的奧地利,這樣的經歷非常少。例如,大兒子的學校裏有一個奧地利同學,他一出生就移民加拿大,後來又回到了奧地利。大家向那個學生詢問的都是加拿大的文化和生活。也有過以向那個學生提問的形式,大家一起討論加拿大的課程。同樣的,也有向大兒子提問關於日本事情的類似課程。另外,不限於學校,在這裏遇到的人問大兒子關於日本的問題,大多是關於生活和文化的問題,即使這個問題是關於語言的,也是作為文化的一個方面的問題。
このように、國外で育つ子供にその土地の言葉の質問ばかりしたり、子供が國外で育つということへの意義を外國語が話せるようになるという部分に強く偏って見出そうとするのは、日本特有の現象なのである。
像這樣,對在國外長大的孩子只提當地語言的問題,或者強烈偏向於能説外語就是孩子在國外成長的意義,這是日本特有的現象。
「サードカルチャーキッズ」の苦悩
この日本特有の現象には、私含め多くの日本人が持つ言葉へのコンプレックスや國際意識の低さが関わっているように思うが、私がここで強調したいのは、海外で育つ子供に外國語が話せるという部分に偏って興味をぶつける行為は、人生を左右するレベルでその子供を傷つける危険があるという點だ。これは決して私たち大人が、知らなかったからで済ませていい問題ではない。
“第三文化孩子”的苦惱
我認為,這種日本特有的現象與包括我在內的許多日本人對語言的自卑感和缺乏國際意識有關,但我要強調的是,對在海外長大的孩子會説外語這一部分產生興趣的行為,在決定人生的層面上,有傷害孩子的危險。這絕對不是因為我們大人不知道,就能解決的問題。
まず前提として、子供は大人と違い、自身のアイデンティティを形成する人生の極めて大切な段階にある。そして日本で見落とされがちなのが、日本にルーツを持ちながら海外で育つ、といった多文化間で育つ子供は、日本で日本人の親の子供として育つ、といった単一文化內で育った子供に比べて遙かにそのアイデンティティの形成過程が複雑という點だ。
首先,孩子與成年人不同,他們正處於塑造自己身份的人生極其重要的階段。日本人常常忽略的一點是,在多元文化間成長的孩子,其身份形成過程要比在單一文化內成長的孩子複雜得多。
このように多文化間で學齢期を過ごす子供は、サードカルチャーキッズ(TCK)とも呼ばれ、単一文化內で育っただけでは成し得ないレベルで多文化間を柔軟に行き來できる大人に成長する可能性を持つことが知られている。
像這樣在多種文化間度過學齡期的孩子,也被稱為“第三文化孩子”,他們有可能成長為在單一文化內無法達到的水平,成為能夠在多種文化間靈活來往的成年人。
例えば上の子の場合は、家の中では日本人感覚の生活がある一方で、一歩家の外に出ればオーストリアの文化が広がっており、感謝や謝罪のタイミング一つ取っても全く異なる文化の間にいる。そして現地の友人も、既に日本人として確立されたアイデンティティを持つ親も自身のモデルにはなりえない中で、雙方の文化の混ざった自分獨自の文化観を築き上げ、アイデンティティを形成していかなければならない狀況にある。
例如,大兒子在家裏過着日本人的生活,但一旦走出家門,奧地利的文化就顯現出來,即使是在感謝或道歉的時候,也是在完全不同的文化之間。而且,當地的朋友和已經是日本人身份的父母,都不能成為他自己的榜樣,所以必須建立起混合了雙方文化的自己獨特的文化觀,形成自己的身份認同。
このようにアイデンティティの形成に苦しむ子供に対し、言葉を話せることにしか興味がないなど、ルーツのもう半分を置く文化に無関心でいることは、その子供のアイデンティティの形成に混亂を與えるだけでなく、その子供の存在の半分を無視するような排他的な行為なのだ。その結果、上の子は深く傷つき、將來日本に住んでもTCKである自分は受け入れてもらえないと思うに至った訳である。
對於像這樣身份認同形成困難的孩子,如果你只對説的語言感興趣等,對根源的另一半文化漠不關心,不僅會給孩子身份認同的形成帶來混亂,而且還是無視孩子另一半存在的排他性行為。結果,大兒子受到了深深的傷害,甚至認為即使將來住在日本,身為“第三文化孩子”的自己也不會被人們接受。
排他性を「放置」する日本の問題
ここで、歐米など海外でも人種差別によって日本人というルーツを否定しているのに何が違うのかという疑問があるかもしれない。確かに実際、上の子も人種差別には苦しめられている。しかし同時に、こちらでは上述したように、日本について言葉以外の質問を多くされたり、異文化を理解するための授業が學校で行われたり、多様な背景を持つ人を受け入れる動きも目に見えて強い。このことが上の子にとっては、差別はあっても自分の居場所もどこかにあるという希望につながっているのだ。
日本“忽視”排他性的問題
在這裏,也許有人會有這樣的疑問:在西方等海外國家,由於種族歧視而否定了日本人的根源,又有什麼不同呢?的確,大兒子也受到了種族歧視的折磨。但是,正如上文所述,那裏對於日本,除了語言以外,還有很多的提問,學校也開設了理解不同文化的課程,接受具有多種背景的人的動作也是有目共睹的。對於大兒子來説,即使存在歧視,自己所在的地方也與希望相連。
どの社會にも排他性はある。日本の問題は、その排他性を軽視し社會として放置しているところにある。そしてこのように排他性を放置する社會は、外から見ると社會全體が排他的であることと同義なのだ。
任何社會都有排他性。日本的問題在於輕視排他性,作為一個社會對此置之不理。這樣的社會,從外界來看等同於整個社會都是排他性的。
海外での子育てを通して私は、子供に海外生活を強いて多くの苦労を與えている自分の身勝手さや親としての責任を痛感すると同時に、海外で新たな可能性を育む子供達を「異質なもの」として排除する日本の排他性に危機感を覚えている。グローバル化の進むこれからの時代、私たちは持てる想像力を最大限に働かせ、多様な背景を持つ未來ある子供達に希望を與える存在でなければならないと強く思う。
通過在海外養育孩子,我深深感到,自己的自私和身為父母的責任,強迫我的孩子在海外生活,給他們帶來了很多的辛苦,同時,日本把在海外培育新的可能性的孩子們當作“異類”加以排除,這種排他性讓我感到危機。我強烈認為,在全球化的未來時代,我們必須最大限度地發揮我們的想象力,給具有不同文化背景的未來孩子們帶來希望。