【龍騰網】在日菲律賓人的職業正在發生變化,從酒吧工作轉向護理工作_風聞
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かつて一世を風靡したフィリピンパブ。その最盛期に働いていたホステスたちは年を経たいま夜の街を離れ、介護や工場など晝の仕事で活躍するようになってきた。安藤ネリーサさんと西銘ベリンダさんも同様だ。長年、日本社會を見つめてきた彼女たちの視點から、フィリピンパブの変遷やホステスとしてこの國に渡ってきた人々の人生を振り返る。(取材・文:室橋裕和/撮影:殿村誠士/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
曾經風靡一時的菲律賓酒吧,吸引了許多女招待在其鼎盛時期工作。然而,隨着時間的推移,這些曾經的女招待們逐漸離開了夜生活,開始在護理和工廠等日間工作中發光發熱。安藤內裏薩和西銘貝琳達也不例外。從她們長期觀察日本社會的視角,回顧了菲律賓酒吧的變遷以及那些作為女招待來到日本的人們的生活經歷。(採訪與撰文:室橋裕和/攝影:殿村誠士/Yahoo!新聞原創 特輯編輯部)
老人ホームで働くフィリピン人、西銘ベリンダさん(45)に仕事のことを尋ねると、やけにテンションの高い答えが返ってきた。「おじいちゃんおばあちゃんみんなかわいくて、自分のファミリーみたい! 一緒にいると心がポカポカするの。いつもハグしてるよ私!」
當我們詢問在養老院工作的45歲菲律賓人西銘貝琳達關於她的工作時,她興奮地回答道:“那些爺爺奶奶們都很可愛,就像我的家人一樣!和他們在一起,我的心總是暖洋洋的。我經常擁抱他們!”
介護の仕事を始めて2年ほどになる。寢たきりや車いすの高齢者の、おむつを替え、お風呂に入れ、ご飯を食べさせ、歯を磨き……なかなかのハードワークだろうと思うが、それでもベリンダさんは言う。「介護の仕事、本當に大好き」
從事護理工作已經有兩年了。為卧牀不起或坐輪椅的老人更換尿布、洗澡、餵飯、刷牙……我覺得這是一份相當辛苦的工作,但即便如此,貝琳達還是説:“我真的很喜歡護理工作。”
やはりフィリピン人の安藤ネリーサさん(51)も、デイサービスで働き始めて1年だ。ときに認知症の高齢者をケアすることもあるのだと、愛知なまりの日本語で話す。「子どもみたいになっちゃうからね。つきあわないといかん。こっちも子どもになってね」ベリンダさんもうなずく。
同樣是菲律賓人的安藤內裏薩(51歲),也已經在日間護理服務中心工作了1年。她用帶有愛知口音的日語説道,有時也會照顧患有老年痴呆的老人。“他們變得像孩子一樣。必須陪伴着他們。我們也要變得像孩子一樣。”貝琳達也在一旁點頭。
トイレに行ったことも、息子の顔も。でも私の顔だけは覚えている人がいて、うれしかったな」
她説:“老人們會忘記很多事情,比如去過廁所,甚至兒子的臉。但有些人卻只記得我的臉,這讓我感到很開心。”
そう日本語で話し合う彼女たちはもともと、フィリピンパブのホステスだった。いまではすっかり介護が天職であるかのように生き生きと働くが、実は全國的に彼女たちのような人材が増えている。パブで働くために來日したが、結婚などを機に水商売を辭め、晝の仕事をと考えたときに介護職を選ぶ女性たちだ。日本での暮らしが長く、日本人とのつきあい方をよく知っている彼女たちは、いまや人手不足の介護業界にとって貴重な「戦力」になってきている。
這些用日語交流的女性,原本都是菲律賓酒吧的女招待。現在,她們在護理工作中充滿活力,彷彿找到了自己的天職。事實上,全國範圍內像她們這樣的護理人員越來越多。她們最初為了在酒吧工作來到日本,但由於結婚等原因辭去了夜生活的工作,轉而選擇了日間的護理工作。由於在日本生活了很長時間,她們對如何與日本人相處非常熟悉,因此成為了人手短缺的護理行業中的寶貴“戰力”。
ベリンダさんは結婚してパブを辭めたあと、ハローワークの「求職者支援制度」を利用して、介護職員初任者研修(舊ホームヘルパー2級)を取得。この資格があれば相手に直接觸れてケアをする「身體介護」ができるなど、仕事の幅が広がる。それに漢字も勉強しなおした。日本人スタッフとの申し送りなどのときに漢字の読み書きは必須だからだ。ベリンダさんは言う。「私だけフィリピン人だからこそ、みんなと同じようにしないとって。書くのは遅いんだけどね」
貝琳達在結婚後辭去了酒吧工作,通過“求職者支援制度”在就業中心取得了護理員初任者培訓(原家庭護理員2級)資格證書。有了這個資格,她可以進行直接接觸的“身體護理”,工作範圍也得以擴大。她還重新學習了漢字,因為在與日本員工交接班等時候,漢字的讀寫是必不可少的。貝琳達説:“正因為只有我是菲律賓人,所以更要和大家一樣。雖然寫得比較慢。”
「カラオケの字幕は漢字を読む練習になるよね」なんてネリーサさんも返すが、ふたりともどうして介護だったのだろう。よく、「フィリピン人はホスピタリティーが豊か」と言われたりもする。ベリンダさんが説明してくれた。
內裏薩還補充説:“讀卡拉OK的字幕是練習讀漢字的好方法。”但為什麼她們倆選擇了護理工作呢?人們常説,菲律賓人非常熱情好客。貝琳達對此進行了説明。
「フィリピンでは、お年寄りは家族みんなで面倒をみるの。私のおばあちゃんも歩けなくなったとき、家族が順番にお風呂に入れたり、ご飯を食べさせたりしてね」大家族の中で高齢者のケアをすることは當たり前で、介護にも慣れているのだという。フィリピンの文化に日本人が救われているわけだが、そのホスピタリティーゆえに彼女たちは苦労を重ねてきた。
“在菲律賓,老人是由全家人一起照顧的。我的奶奶不能走路時,家人輪流給她洗澡、喂她吃飯。”在大家庭中照顧老人是理所當然的,因此她們也習慣了護理工作。雖然日本人受益於菲律賓的這種文化,但正是因為這種熱情好客,她們也經歷了很多困難。
ネリーサさんが故郷のマニラ首都圏ケソンシティから日本に來たのは35年前。生活の苦しい家族を助けるためだった。時あたかもバブル絶頂期の1989年。フィリピンパブも好景気で、店の前に行列ができることもあれば、店で盛大な忘年會を開く會社まであったそうで、ネリーサさんも「深夜までのシフトが終わったら別の店に呼ばれて朝まで仕事して」と、ホステスが足りないほどの活況だった。
內裏薩從故鄉馬尼拉首都圈奎松市來到日本是在35年前。那是為了幫助生活困苦的家人。正值泡沫經濟巔峯期的1989年。菲律賓酒吧也因為經濟繁榮,門前有時會排起長隊,甚至有公司在店裏舉辦盛大的年終聚會。內裏薩回憶道:“夜班結束後,會被叫到另一家店工作到早上”,女招待嚴重不足的情景歷歷在目。
當初は東京・新宿にいたが、93年に愛知県名古屋市の歓楽街、栄にやってきた。すでにバブルは崩壊していたが、フィリピンパブの業界は、「この頃がいちばん良かったかもしれないね」とネリーサさんは振り返る。というのも、バブルが弾けてなお、泡沫の夢が忘れられず遊びたい男たちはいるわけで、しかし會社の経費はもはや使えないから、飲み代の安いフィリピンパブに流れてくるのだ。
最初,內裏薩在東京新宿工作,但在1993年,她來到了愛知縣名古屋市的繁華街區榮。雖然泡沫經濟已經崩潰,但內裏薩回憶説:“那時候的菲律賓酒吧行業可能是最興盛的時期。”這是因為儘管經濟泡沫已經破滅,仍有一些人懷念那段繁榮的日子,想繼續享樂。然而,由於公司不再報銷他們的娛樂開銷,他們開始選擇價格較低的菲律賓酒吧。
それだけではない。フィリピン人たちの陽気さに、バブルの夢破れた男たちは勵まされ、癒やされたのだろう。南國の気質なのか、妙に距離感が近く仕事とプライベートの境界もあいまいで、なんだか友達のように接してくれる彼女たちに、日本のおじさんたちは甘えたのだ。
不僅如此,菲律賓人的開朗性格也給那些經歷泡沫經濟破滅的男人們帶來了鼓勵和安慰。她們可能因為南國的天性,與人相處時顯得非常親近,工作和私人生活的界限也很模糊。她們像朋友一樣對待這些日本大叔們,讓他們感到被依賴和温暖。
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それにフィリピンパブでは、素の自分をさらけ出せるのだと語る客もいる。俺はどこそこの部長だ、なんて偉ぶったところで外國人の彼女たちにはわからない。「だからなによ」と笑い飛ばされてしまう。それが心地良い。そんな客でにぎわう栄だったが、ネリーサさんもまた、ほかのホステスの誰もがそうであるように稼ぎのほとんどを故郷に送った。「自分より家族が先。それがフィリピンの文化だもんで、そうやってあたしたち育てられてきて。自分の生活もあるのに、ぜんぶ送っちゃう」
此外,一些客人表示,他們在菲律賓酒吧裏可以展現真實的自我。即使他們自稱是某某部門的部長,外國的女招待們也不會理解。“那又怎麼樣呢?”她們笑着回答。這讓人感到非常舒適。內裏薩和其他女招待一樣,把大部分收入寄回了故鄉。“家人比自己重要。這是菲律賓的文化,我們就是這樣被養育大的。即使自己也有生活需要,但還是會把全部收入寄回去。”
2000年にミンダナオ島のスリガオから來日したベリンダさんも同様だ。「相手が幸せな顔になると、自分も幸せになるの。それがフィリピン人」
2000年從棉蘭老島的蘇里高來到日本的貝琳達也是如此。“看到對方露出幸福的表情,自己也會感到幸福。這就是菲律賓人。”
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フィリピンパブの源流は1960年代にあるといわれる。その頃、バンドやダンサー、歌手として日本に出稼ぎに來るフィリピン人がたくさんいたそうだ。働く場所はおもにキャバレー。現在のキャバクラとは違い、ステージでのショーを見ながら飲める店で、フィリピン人はムードを盛り上げるエンターテイナーとしてずいぶん重寶されたらしい。
據説菲律賓酒吧的起源可以追溯到20世紀60年代。當時,有許多菲律賓人以樂隊成員、舞者和歌手的身份來日本打工。他們主要在夜總會工作。與現在的夜總會不同,那時的夜總會是可以邊看舞台表演邊喝酒的地方,菲律賓人作為氣氛活躍的表演者非常受歡迎。
彼らは「興行(タレント)」という在留資格(ビザ)を取得して日本に働きに來ていたが、この「興行」なる枠がどんどんと拡大解釈されていく。フィリピン人女性を歌手やダンサーではなくホステスとして働かせる店が増え、やがてそちらが人気になっていった。
他們通過獲得“演出(藝人)”簽證來到日本工作,但這個“演出”的範圍逐漸被廣泛解讀。越來越多的店鋪讓菲律賓女性作為女招待而不是歌手或舞者來工作,漸漸地,這種店鋪變得越來越受歡迎。
こうして全國的にフィリピンパブが増えていく。とくに愛知県には多かった。この地域は製造業がさかんで出稼ぎ労働者の集まる土地柄のため、男性人口が多かったからともいわれる。それは日本のほかの場所でも同様で、工業地帯があるような街ではたいていフィリピンパブも亂立し、繁盛した。
就這樣,菲律賓酒吧在全國各地逐漸增多。特別是在愛知縣,這類酒吧非常常見。據説這是因為該地區製造業發達,吸引了大量外來勞工,男性人口較多。在日本其他地方也是如此,在有工業區的城市中,菲律賓酒吧往往也很多,並且非常繁榮。
つまりフィリピン人女性たちは高度経済成長期の日本を陰ながら支え、伴走した存在であったようにも思える。もちろんそこには借金を抱えて來日することの理不盡、ブローカーの搾取、店でのハラスメント、それに惚れた腫れたの男女の悲喜劇も含めたさまざまな問題があったことも確かだ。
也就是説,菲律賓女性在日本經濟高速增長時期似乎是默默支持並伴隨其發展的存在。當然,這其中也確實存在着揹負債務來日的無奈、被中介剝削、店內的騷擾,以及因戀愛而產生的各種悲歡離合等諸多問題。
それでも家族のためにと異國の夜で働くものの、彼女たちの興行ビザは在留期間が半年だった。切れるといったんフィリピンに帰國するが、また日本に呼ばれるかどうかはわからない。
儘管如此,為了家人她們在異國的夜晚工作,但她們的演出簽證停留期限只有半年。簽證到期後,她們必須回到菲律賓,但是否會再次被召回日本則是未知數。
「働いていたお店からまた指名されると、ビザを取り直して戻れるんです。だからみんな半年間、必死で働くんです」ふたりは言う。そういう事情にもめげずに、むしろ客の背中をたたいて一緒に笑うような彼女たちの明るさに救われた日本人は多かった。
如果被以前工作的店再次僱用,就可以重新辦理簽證回來。因此,大家在這半年裏都拼命工作。”兩人解釋道。儘管面臨這些困難,她們仍然以樂觀的態度與客人互動,拍着客人的背大笑,正是這種陽光的性格讓許多日本人感到安慰和鼓舞。